休日に少しだけ部屋を片付けようと思った。
「少しだけ」のつもりだったのに、本棚の前に立つとだいたい予定は狂う。本好きの人ならわかると思うけれど、本棚というのは整理する場所ではなく、思い出に捕まる場所だ。
そんなことをしながら本棚を眺めていたら、一冊の本が目に入った。
『世界を自由に歩ける日 その時見たいのは何でもないけれど なぜだか妙に純度の高いこんな景色だ』
なんとも長いタイトルである。
この本は誕生日にプレゼントでもらったものだった。自分で選んで買った本ではないので、当時はパラパラと眺めた程度だった気がする。
でも、せっかく目に止まったのだからと思い、コーヒーを淹れて改めて手に取ってみた。
著者のEzogeekさんが旅の途中で出会った景色と言葉をまとめた一冊だ。
小説でもなければ、ガイドブックでもない。
どちらかと言えば写真集に近い。
写真があって、その横に短い文章やキャプションが添えられている。
本は北海道から始まり、少しずつ南へ下っていく。
沖縄まで辿り着いたかと思えば、今度は海を越えてヨーロッパへ。さらにアフリカやアメリカへと続き、最後は著者の地元である川崎で締めくくられている。
旅のスケールは大きいのに、不思議と読後感は静かだ。
大分の真玉海岸。
熊本の上色見熊野座神社。
チェコ・プラハの街並み。
挙げ始めたらきりがない。
もちろん今の時代、綺麗な風景写真ならスマホでいくらでも見ることができる。
検索窓に地名を入れれば、一瞬で世界中の絶景が表示される。
だからこそ、この本の価値は写真そのものではないのかもしれない。
そこに写っている景色を、誰が見て、何を感じたのか。
その「人」の部分が残っている。
検索して探しに行く景色ではなく、ページをめくった先で偶然出会う景色。
アルゴリズムが「あなたはこれが好きそうです」と勧めてくる世界ではなく、たまたま開いたページで心が止まる体験。
紙の本には、そんな贅沢がある。
最近はSNSもYouTubeも便利だ。
私も普通に使う。
でも便利になればなるほど、自分が見たいものばかりを見るようになる。
興味のあること。
好きなもの。
知りたいこと。
それはそれで楽しい。
だけど、本をパラパラとめくっていて出会う景色には、自分の好みや検索履歴の外側がある。
思いがけない出会いがある。
それが本の面白さなのだと思う。
そして、この本の中で一番心に残ったのは、実は写真ではなかった。
帯に書かれていた短い言葉だ。
「こんな坂の街で暮らすのは大変ではないですか」と聞いた私に、地元のおばあさんは笑いながら答えた。坂の上の人を好きになってしまったら仕方ない、と──。
なんだか、とてもいい。
理屈ではなくて、人間の温度がある。
効率も合理性もない。
でも人生って案外そういうものだ。
坂が大変だから引っ越すのではなく、好きな人がいるから坂を登る。
そういう順番で物事を考えられる人がいる。
たぶん幸せというのは、こういうところに隠れているのかもしれない。
本を閉じたあと、しばらくコーヒーを飲みながらそんなことを考えていた。
世界中の絶景ももちろん素敵だけれど、本当に心に残るのは、その景色を見ながら誰かが話した何気ない一言だったりする。
私も歳を重ねるなら、こういう言葉を自然に口にできる人になりたい。
そしてまた、本棚を整理するはずだったことを思い出した。
結局その日は、本を一冊読んで終わった。
本棚は結局片付かなかったけれど、少しだけ心の中は整理された気がする。
そして、今日もヒゲをととのえる。
ヒゲメガネ




































